「王地山まけきらい稲荷」

その由来

由来

丹波篠山の王地山にあるお稲荷さんには、王地山平左衛門という力士の名をつけた祠があって、「まけきらい稲荷」さんと呼ばれている。 その由来を話せばな・・・。

むかし、そうじゃ青山忠裕公が藩主で、江戸幕府の老中だったときのころだという。毎年、将軍様御上覧の大相撲があるのだが、いつも篠山藩の力士は負けてばかりいた。何しろよその藩では、金にあかして本物の力士をやとってきては出すのだから、田舎の草相撲力士は歯が立たぬのも無理はなかった。

ある年のことだ。大相撲の日も近づいて来たので、負け嫌いの忠裕公のこと、不機嫌に座敷にこもったまま腕組みをしていると、「殿、お国もとから力士が十人ほどまいりまして、お目通り願いたいと申しておりますが・・・。」と近衆がうかがいを立てにやって来た。「わが藩は家康公以来徳川家に仕える譜代大名。それが新参の外様大名に毎年負けるとは不甲斐のないことだ。それにしてもまた国もとの弱いやつらが来たというのか・・・。まあ、そこへ通せ。」と命じて縁先に出てみると、筋骨こそたくましいが、思ったとおりとても江戸の本場所の力士とはくらべものになりそうにない。

「殿、ご機嫌うるわしく存じます。手前が頭取の高城市松、これなるは王地山平左衛門、波賀野山源之丞、飛の山三四郎、黒田山兵衛、小田中清五郎、須知山道観、曽地山左近、頼尊又四郎、それに行司の金山源吾にございます。」

「そのほうたち、国もとではいかに強かろうと、それは草相撲と申すもの・・・。」とつい日頃のうっぷんを口に出そうとしたが、忠裕公はぐっとこらえて、はればれした表情で会釈を返した。「これ、酒をもて。国もとよりわざわざ出向いた力士どもに十分のもてなしを・・・。」

やがて相撲の当日が来た。桟敷の忠裕公は大のご満悦だった。いつもなら真っ先に負けて替えるのが篠山藩の力士だが、しょっぱなから全員勝ち星ばかりという不思議なことがおこったのだ。

将軍の前で、すっかり優勝の面目を施した忠裕公はご機嫌で屋敷に帰ると、「誰かある、早く今日の力士どもを呼べ。なに?先刻国もとへ帰ったと・・・。馬鹿もん、すぐ呼びもどせ。」思わず大声でどなってしまった。

驚いたのは家来たち。さっそく早駕籠で後を追ったが、東海道のどこの宿場にもそれらしい姿を見かけたものはなかった。駕籠は丹波路にはいったが行方はつかめない。とうとう篠山城の門をくぐってしまった。

話を聞いた城代家老はびっくりした。第一、力士をさしむけたこともなければ、そんなしこ名の力士は聞いたこともない。さっそく城下の名主たちを呼びあつめ、「波賀野山とは誰じゃ。」「金山源吾たる行司を知らぬか。」とたずねてみるのだが、誰ひとり心当たりのありそうな者はいない。たまりかねた家老が、「いずれにいたせ、殿のきついおふれじゃぞ。みなのもの、草の根分けても・・・。」と命じようとしたとき、名主の中のひとりが膝をポンとたたいて、「王地山といい、波賀野山といい、みなお稲荷さんがござりまするのう。きっと、そりゃお稲荷さんでは・・・。」といいはじめた。

「何をたわけたことを。」家老が怒ると、その老名主は語をついでこう語るのだ。「じつは不思議なこととは思ってはおりゃしたが、この十日ばかり、お稲荷さんのお供えがそのまま残っておりやんして・・・。」「おう、そうじゃ。」「きっとお殿さまをお助けしようと、お稲荷さんたちが江戸にのぼったのでございましょう。」他の名主も、こうなると思い当たることばかり。とうとう、この話が忠裕公に報告され、公はそれぞれの稲荷に幟や絵馬を奉納して感謝した。これが「まけきらい稲荷」の起こりだということじゃ。

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