日蓮宗  住職 吉田英昭

「本経寺」

土浦より遠く移築 (縁起)

妙長山本経寺は日蓮宗に所属し、総本山は身延山久遠寺で、本尊は宗祖日蓮聖人奠定の大曼陀羅御木像である。

慶長六年(一六〇一)高崎の城主松平安房守信吉が実母(徳川家康姉)菩提のため、家臣都築和泉に奉行を命じ、茨城県土浦の地に建立した寺で、開山持経院日泉上人を派遣した東京都大田区池上、大本山本門寺の末流となる。

元和五年(一六一九)松平安房守信吉、丹波篠山城主として転封の砌り、本堂を解体し船に乗せ瀬戸内海に入り、加古川口より曳き舟に乗せ替え久下に着き、そこから牛車にて陸送し、河原町の現在地に敷地を賜わり移築建立された。山号寺号はそのままとし京都大本山妙顕寺の末寺となる。

土浦に建立された折り、松平伊豆守の代より城中で祭られていた稲荷大明神(吒枳尼天)像を、本堂脇に小堂を建て、開山上人は日夜給仕されていたがこの御神体お道具も移築の折り篠山に移され、王地山の地に奥の院として観請された。城主信吉公亡くなられて後、その子忠国公が襲封されたが、慶安二年(一六四九)忠国公明石城へ轉封となる。その折り、永く当山にとどまり衆生を救うようにとの霊告があって本経寺、王地山稲荷社とも篠山の現在地にとどまる事を許された。次代松平康重公、青山公と歴代城主の帰依を受け、現在に至る。

本尊、鐘楼、墓地、寺宝

本経寺の本尊仏像は、慶長十一年の作、敷地境内地、寺有の山林、原野、宅地併せて三千坪である。昭和十八年まで現在の表門の横、五m平方の敷地に鐘楼があったが、戦時中金属回収のため応召して今はない。又、墓地に天良院殿妙栄日心大姉(延宝七年五月八日没)即ち篠山五代城主松平駿河守典信の長女千久子=永井権右衛門の妻の石碑がある。

又、この天良院殿菩提のための縦三m、横二mの釈尊涅槃絵像の掛軸が寺の什宝として格護されて現存している。掛軸の裏面に中藹腰元等、大奥寄進者名が書かれている。又、什宝には日蓮聖人御神筆略曼陀羅一、管公真筆紺紙に金泥筆の法華経断片、明治の画人獅山筆虚空蔵菩薩金泥絵像一、兆禅師作、吒枳尼天絵像一、日蓮聖人絵像等があり、王地山焼の妙見宮と染め付けの香台、同じく王地山焼の鶴亀藍色の短冊に一個一個本経寺と寺号の入った湯呑茶碗三十個があり、大正年間中国人により錫で掛けつぎ修理されて現存し、王地山焼青磁の香炉等も現存している。

本経寺の庫裡は篠山移築以来二百六十四年経った明治十六年荒廃したため、第十六世文邦院日慎上人建て替えを発意されたが、廃藩による檀家士族離散のため、上人自身籍に入る前の私有財産を処分されて資に当てられた。縁側には杉の丸桁を使い、天井板まで檜づくりとし、台所より内玄関本玄関まで二間毎に八寸角の欅柱をいれ、台所、内玄関、本玄関の六畳間は、一尺五寸厚みの二間物の角桁にて囲み、炊事場より内玄関に至る天井は松丸太の牛をはわすなど徳川・明治初期の建築様式にして現存している。

先住日遵上人は彫刻を得意とされ本堂内全ての彫物は上人の作になるものとして、永い年月を掛けられたとはいえ、価数百萬金を投ずと雖も誠心の現れに叶わず、その功績讃えるに言葉なし。

昭和五十六年十一月十二日、宗祖七百遠忌の日に、現住職が日菖師範の跡を継いで二十三世となり、平成二年六月、本堂及び庫裡の総屋根替えをする。

番神堂と松の大木

境内の一角に法華三十番神を祭る番神堂がかつてあり、この中に七福神の一つ壽老人の木像があった。これは明治、大正、昭和と生きた郷土史研究家の奥田楽々斉という人が七福神の木像を彫り、篠山の七力寺に納められたもので、その当時の人は各寺を回って七福神参りをしたとかいわれている。

この番神堂の裏に巨大な松の老木があって、河原町にそびえ立ち、遙か野間街道や八上糯ヶ坪辺りより望見出来る程の大木で、篠山城主青山公が参勤交代で「下に、下に」と帰って来られ、この松が見えると供の物に「篠山に帰ってきたのう」と仰せられたと伝えられているが、昭和に入って切られて今はない。

王地山稲荷社

奥の院として稲荷が祭られた王地山は「七尾七谷しぐれして紅葉色ます王地山」と篠山小唄に唄われ、町の東端にある独立丘である。人皇第五十代垣武天皇の御大、平安遷都に先立って、ここの地が王城候補地の一つに選ばれて、藤原黒智麿が勅命を奉じて検分に来たことがあり、以来その栄誉を伝えて王地山と呼ばれているという。今は王地山公園となっているが、公園の隣接地である山の西側(本経寺所有地)に、この山の鎮守たる王地山稲荷社の本殿・中殿・拝殿・社務所・眷属末社九社と、「まけきらい稲荷」が石の俵のうえに祭られた石社がある。

御影石の大鳥居の下に長い石段がある。一の鳥居から手洗いの場を経て、石段を登った初めの右側に、信徒休憩所の建物がある。京の清水の舞台のように山の斜面に縁下を櫓に組んで建てられた五間四面三十畳敷きの建物で文雅叢と名付けられている。明治四十四年の建築で公園を下に見て梅林桜花を見下ろす風雅な建物で、右端に子育鬼子母神が祭られている。勤請も定かではないが、現在九十歳の老人も子供の頃、稚児にして頂いたというから相当古いらしいが新しい信徒多く、十二月十五日の鬼子母神祭には三百人程の信徒が参拝する。

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